先日からお話しさせていただいている國分功一郎さん著の『暇と退屈の倫理学』から読み取るFindに通ってくれている子どもたちに通じる「退屈」への一つの解を出してみたので、皆様と共有させていただきたいと思います。
ぜひお時間がおありの方は、國分先生の本著をご覧になられてみてください。
本著のテーマとなっているのは、
暇と退屈といった概念はどのタイミングどんな条件で発生しているもので、それをどうやって日常生活に落とし込んで人々は生活していく必要があるのか?というものです。
人々は、退屈から逃れるために労働し、または、余暇に興じているが、実はそれも自身の選択ではなく消費させられている余暇や趣味であると述べられています。
確かにそんな風に言われるとそう感じてしまいます。
非常にシステム化されている現代社会においては、不便に感じることこそ少ないですが、何か面白みに欠けて、もはや流れに乗っているだけで気づけば文明の進歩に乗れているような感覚になります。
なんとなく流行っているからのっかてみたことが、本当にのめり込んでしまうようなこともあり得ますが、なんとなくこれまでかけてきたお金がもったいないからやめられないということもあるのではないでしょうか。
これは、習い事に置き換えてもそうですよね。
コロナ禍においては、IT化が進み、多くのことが自分の身近でできるようになっています。
出前という概念も機械的な側面が残ってしまいましたよね。
個人的には、出前というとなんとなくワクワクしていたあの感情が今は少ない気がします。
(我が家にはUberどころか出前館も来ないので、杞憂中の杞憂ですが)
何が言いたいかというと、システム化された世界はどことなく面白みに欠けると感じるわけです。
(これは完全に私見で、もちろんそれにワクワクする方がいるのは存じ上げております)
子どもにおける退屈
大人の社会がそうなのだとしたら、子どもにとっても同じことです。
Findの子どもたちは、素朴なことにも疑問を感じることが多いです。
つまり、なんのための制度?なんでそれを習うの?と。
では、これが「システムのため」という答えだった場合どうでしょうか。
きっと納得いかず面白みを感じることができないでしょう。
退屈の形式
退屈には「第一形式」「第二形式」「第三形式」と3段階があるとされています。
「第一形式」の退屈は、何かによって退屈させられることです。
例えば、駅で電車を待つときに退屈させられることです。
何かの式典でスケジュール通り進むのを待っている間もこれに当たるでしょう。
次いで「第二形式」は、何かに際して退屈すること
例えば、カラオケパーティーに行っているけど、退屈だと感じている状態です。
いわば、退屈しのぎに何か行動をしたけれど、実は退屈であるということ。
そして「第三形式」、これは“なんとなく退屈だ”という状態です。
ハイデッガーはこの第三形式に、「自身が自由であること」を見出せると述べています。
その結果、自分で進むべき道を切り拓けるのだと。
國分先生はこれに対して
いや第三形式も実は第一形式と同じく“決断の奴隷”であると仰られています。
要するに、第一・第三形式はともに主体である自分が受動的になってしまうということです。
これを子どもたちに置き換えると先程の子どもの素朴な疑問と繋がってくるわけです。
言い換えると、主体的に動くことにこそ本質的な楽しさを見つけられるということです。
國分先生曰く、退屈の第二形式にこそこの退屈から抜け出す解決策があるそうです。
というのも、例えば、ご飯を食べることが好きならば、
そのお米はどこで作られているのか、ドレッシングはどうやって作られているのか?原材料は何なのか?
こうやって日常を楽しむ訓練をし続けることで本来的な自分を見つけることができる、と。
なので、学校のカリキュラム通りに進む授業に嫌気がさしている子に対してそれでも時間割通りを求めるような支援はやはりどう頑張ってもインクルーシブ教育とは呼べないだろうこと。
なんとなく静かに座っているだろうからきっと現状満足なのだろうと判断されている子どもに新しい知識を学ばせてあげる気がないことは、子どもの退屈に気づけていないことを意味しますよね。
そしてそういうことに気づいてあげられる人というのは、その人自身そういった日常の訓練を積んでいる人なんだと思います。
子どもたちにとって学校とは、その子がその子の人生を彩る術を身につける場所であってほしいと思っています。
難しい勉強が分からなくても、概念が分からなくても、ただ、機械的に計算カードを暗記させることに何か感じる先生であって欲しいと思います。
とまあ、今回も偉そうにつらつら書いていますが、どうかご容赦ください。
今回のブログは個人的な考察ブログであり、やや強引に子どもたちの世界に当て嵌めた気もするので、哲学家の皆様くれぐれもご理解ください。
そんなわけなので、僕も今以上に日常の彩を増やせられるように訓練を怠らないようにいたします。
塾長 森
LEAVE A REPLY